すがる相手がいなくても

教会での話。とある子どもが母のすねに何度もじゃれるような感じですがりつき、満面の笑みを浮かべていた。そこに不安さなどは一切なく、この上ない平和と喜びに満たされているようだった。お金でもなく、食べ物でもなく、ただただ、絶対の信頼をおける、愛情の保証された親にすがりつくだけで、尽きることのない幸福に身を踊らせていたのだ。

私にも、そういえば、そんな経験があった。ただ、いつか大人になるにつれて、そのような喜びから離れ、大人願望がふくらんでいったように思う。

大人に対する私のイメージは、とにかく正義を心の中枢に置き、確かな信念をもって判断と行動をつかさどる、清廉かつ力強い存在であった。

さて、実際に大人になってみると、そんなイメージはまったくの幻想であることが理解できた。自制心は育ったかも知れないが、心の奥底は、何ら変わりのない、ただの子どものままなのだ。

一方、幻想ではない明確な事実が浮かび上がった。それは、大人になったからには”自立”するということ。自身のことは自身で責任をとる。かつて経験したような、愛情の保証された自分よりも大きな存在は、いなくなった。

漫画「ドラえもん」の屈指の名ゼリフとして、以下のようなものがある。

おとなって、かわいそうだね。自分より大きなものがいないもの。よりかかってあまえたり、しかってくれる人がいないんだもの。

このエピソード自体は、哀しさの中にも、暖かさや安らぎが感じられる形で終っている。人生とは、やはり、そのような辛さを抱えながらも、なんとか希望をむねに生きていくものだろう。望む、望まぬに関わらず、それが事実なのだと。

しかし、それに対する新たな希望が、イエスキリストにあったのだと、私は信じる。

エフェソの信徒への手紙 5:1 新共同訳
[1] あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。

ヨハネによる福音書 1:12 新共同訳
[12] しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。

イエスキリストを救い主として受け入れたのなら、神の子となる。そこに年齢などは関係ない。神様は、私達の父であり、その父の愛を受けて私達は子どものように学び、愛によって叱咤され、しかられ、泣きつき、涙をはらってもらうことができる。

詩編 22:25 新共同訳
[25] 主は貧しい人の苦しみを 決して侮らず、さげすまれません。 御顔を隠すことなく 助けを求める叫びを聞いてくださいます。

もちろん、大人は強くなるべきであり、若い世代を導き、良き見本とならねばならない。しかし、大人の生きざまとは、それだけのものではない。誰でも不完全で脆く、弱くつぶれることもある。そんな時にもイエスキリストにすがり、父である神様に泣きつくことができるのだと、神様の言葉は教えてくれている。

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